今日、ふと考えていたのですが、「本当の自分」という言葉を、なんだかずっと思い込んできた気がします。
いい子でいる自分は仮面で、優等生のような自分は演技で、人に合わせている自分は嘘で。
その奥に、もっとドロドロした本音の自分がいて、それこそが「本当の自分」なんじゃないか。
ずっとそんなイメージを持っていました。
でも最近、その考え方自体が、少し変な感じがしてきたんです。
だって、何年も何年も「いい子」でいた自分は、果たして本当にただの「仮面」なのでしょうか。
演じ続けてきた行動は、もう演技ではなく、自分という構造そのものになっているんじゃないか。
そう思ったりします。
怒られないように動く癖、失望されないように選ぶ思考、評価を下げないように無難な道を選ぶ感覚。
それらすべてが、もう自分の一部として染み付いている。
それを「偽物」と切り捨てるのも、なんだか違う気がして。
じゃあ逆に、「本当はもっと残酷で、自分勝手なはずだ」という、あの感覚は何なのか。
それは本質なのか。
それとも、抑え込まれてきたことへの反動や、ただの反発なのか。
いい子でいるのが苦しくて、その反対側に作り上げたイメージなのかもしれません。
「こんなの自分じゃない」という感覚が強いと、人はその反対側に理想を置きたくなる気がします。
優等生の反対側に、堕ちた自分。
ちゃんとしている自分の反対側に、ダメな自分。
期待される自分の反対側に、期待されない自分。
それらをまとめて「本当の自分」と呼んでいるだけなのかもしれない。
そう考えると、本当の自分とは、どこかに元々存在していたものではなく、後から作られた概念のように思えてきます。
ある種の対抗構造というか、逃げ場というか、物語の装置のような。
「これは仮面だから」と言えた方が、楽になれますからね。
それに、感情が強いものほど「本質」っぽく感じてしまいます。
怒り、憎しみ、自己嫌悪、破壊衝動。
でも、「強い感情=本当の自分」というわけでもない気がするんです。
ただ強く出ている反応だったり、神経の防衛反応だったり、蓄積したストレスの放電だったり。
それを「これが本当の自分だ」と言い切るのも、少し乱暴な気がします。
最近思うのは、「自分という存在は、一つの塊ではないんじゃないか」ということです。
いい子の自分もいれば、逃げたい自分も、認められたい自分もいる。
期待されたくない自分も、壊したい自分も、守りたい自分も。
それぞれが場面ごとに出てきているだけで、どれか一つが「本当」というわけでもない。
すべてが構造で、すべてが反応で、条件付きで起動しているだけ。
そう考えると、「本当の自分を見つけたい」という発想自体が、少しズレているのかもしれません。
見つけるものではなく、作られてきたものの集合体のような。
選択についてもそうです。
自分では「ちゃんと選んでいる」っていう感覚がありましたが、よく考えたら、危険を避けているだけの選択だったりします。
怒られないように、失望されないように、評価を下げないように、嫌われないように。
選んでいるつもりで、ずっと同じ回避ルートをなぞっていただけなのかも。
一方で、欲求に基づいた行動のときは、あまり「選んでいる」感覚がありません。
気づいたらやっている。
なんとなく、そっちに行っている。
理由は後から考える。
なのに振り返ると、その行動にはちゃんと一貫性があったりします。
不思議ですよね。
「選んでいる感覚」があるときほど、実は選んでいなくて、「選んでいない感覚」のときの方が、結果的に選んでいたりする。
考えれば考えるほど、
「自分って何だろう」
「本当の自分って何だろう」
と思います。
一生答えは出ない気もしますし、出さなくてもいいのかもしれません。
ただ今は、「本当の自分がどこかにいる」という考え方が、少しずつ崩れてきている感じがしています。
崩れてはいますが、じゃあ何が残るのかは、まだ全然分かりません。
構造だけが見えてきて、感覚がまだ追いついていなくて。
分解だけが進んで、再構築が始まっていない。
そんな感覚です。
それがいいのか悪いのかも、進んでいるのか止まっているのかも分かりません。
ただ、「本当の自分を見つけなきゃ」という焦りは、少しだけ薄れてきた気がします。
見つける対象ではないのかもしれないし、そもそも一つではないのかもしれない。
だったら、今出ている反応や、今動いている感情、今の選択パターンを、そのまま眺めている方が、まだ正直なのかなと思ったりしています。
正解に辿り着こうとするより、構造を眺めている感じ。
答えを出すより、解体している途中。
たぶん、今はまだその途中で、
これもまた、別の構造に変わっていくのではないでしょうか。
今日はこれでおしまいです。
ではまた。
