今日は、自分の中にある「自己承認」と「価値基準」について、少し考えていました。
最近ずっと、承認欲求とか存在意義とか、そういう言葉をぐるぐる考えていて。
「自分を認めることが大事なんじゃないか」とか、「自己承認ができたら楽になるんじゃないか」とか、そんなことを思っていたんですけど、よくよく考えてみると、そもそもその「認める」って、何を基準にしてるんだろうなって思ったんですよね。
「自分を認める」って言葉はすごく優しい響きがあるけど、じゃあ実際に、何をもって「認めた」と感じるんだろうって考えると、自分の中ではまだ、役に立ってるかとか、価値を生んでるかとか、誰かに必要とされてるかとか、お金になってるかとか、そういう「社会的な物差し」で自分を見ている感じがして。
自己承認って言葉を使ってるけど、中身をよく見ると、たぶんそれって「社会的に通用する自分を認めたい」になってる気がして。
もし、何も生み出していなかったら。
もし、誰の役にも立っていなかったら。
もし、評価もされていなかったら。
もし、お金にもなっていなかったら。
その状態の自分を、「それでもいいよ」って思えるかって言われると、正直、まだよく分からないんですよね。
たぶんどこかで、
「存在=役に立つこと」
「価値=貢献すること」
「意味=生産すること」
みたいな考え方が、かなり深いところに染み込んでる気がしていて。
だから「自分を認めたい」と思っても、無意識のうちに、
「何かしてる自分」
「ちゃんとした自分」
「社会に通用する自分」
しか許可してない感じがするんですよね。
「自分を愛する」とか「自分に優しくする」とか、そういう言葉を使うけど、よく考えると、それって条件付きなんじゃないかって。
「ちゃんとしてたら」「努力してたら」「価値を出してたら」「意味のあることをしてたら」。
そういう前提がついてる気がして。
もし、全部なかったら、どうなんだろうって。
何もしてなくても、何者でもなくても、誰の役にも立っていなくても、それでも存在していいって、本当に思えるのかなって。
たぶん今の自分は、「自分を認めたい」と思いながら、同時に「価値という物差し」を手放せていない状態なんだと思います。
自分の基準で生きたいって思ってるけど、その「自分の基準」自体が、社会の基準から作られてる感じもして。
だから違和感が出るんだと思います。
自己承認って、自分を評価することなのか、それとも、自分を評価の対象から外すことなのか。
この違いが、まだ自分の中で整理できていない気がします。
自分を認めたいのに、何かを達成しないと認められない感じがあって。
でもそれって、本当に自己承認なのかって考えると、ちょっと分からなくなるんですよね。
たぶん今は、答えを出す段階じゃなくて、このズレを眺めている段階なんだと思います。
「存在意義」と「存在していい理由」を、ずっと同じものとして扱ってきたけど、もしかしたら、それは別物なのかもしれないな、とか。
価値がある自分と、生きていていい自分は、本当は違う概念なのかもしれないな、とか。
そんなことを考えながら、まだうまく言葉にはできてないけど、自分の中で何かがズレている感覚だけは、はっきりあります。
多分この違和感自体が、今の自分の思考の場所なんだと思います。
答えは出ていないし、どう生きるかも分からないし、どう自分を扱えばいいかも、正直まだ曖昧です。
ただ、「自分を認める」って言葉を使うとき、その中身をちゃんと見ていかないと、結局また同じ物差しで自分を縛るだけになる気がして。
まだまとまってないし、きっとこの先も考え続けると思うんですけど、今日はそんなことを、ぼんやり考えていました。
今日はこれでおしまいです。
ではまた。
