今日、また考えていたことがあって。
自分は、効率が悪いものに対して、どうしてこんなに強く反応してしまうんだろうって。
自分自身が非効率なことをしているときは、正直あまり気にならないんです。
むしろ、「あ、無駄してるな」って思いながらも、「まぁ、自分だしな」って許せてしまう。
あとで改善できるし、自分で決めてやってることだからだと思うんですよね。
でも、人との関わりの中で、自分の時間が効率の悪い使われ方をすると、すごくしんどくなるんです。
なんか、無駄に消費されている感覚というか。
取られている感じというか。
授業とかもそうで。
分野が好きか嫌いかは、実はあまり関係なくて。
楽しい授業は楽しいし、苦痛な授業は本当に苦痛なんです。
考えてみると、内容じゃないんですよね。
その人が考えて授業をしているかどうか。
その人じゃないと成り立たないかどうか。
そこに思考があるかどうか。
それを感じられる授業だと、たとえ興味のない分野でも、不思議と価値を感じるんです。
「これは自分じゃ再現できないな」って思えると、時間を使う意味を感じられる。
でも、ただ文字を読むだけの授業とか、資料をそのまま読み上げるだけの時間になると、「あ、これ一人で読めばもっと早いな」って思ってしまうんですよね。
その瞬間に、時間が一気に重たくなるというか。
掃除とか事務作業もそうで。
もっと効率よくできるのに、構造的にどうにもならない感じがすると、イライラしてしまう。
この前の訪問営業もそうでした。
結論を言わずに、ずっと話されて、寒い中で20分以上。
「時間って、こんな使われ方するものだっけ」って思ってしまって。
自分は効率化が好きなんだと思います。
マニュアルを作るのも好きだし、構造を整えるのも好きだし、毎回同じ「無駄」を繰り返したくないという気持ちが強い。
でも最近、これは本当に「効率」の話なのか、分からなくなってきました。
たぶん、僕が嫌なのは、非効率そのものというより、自分の時間が、自分の意思とは関係なく使われていく感覚なのかもしれないなって。
説明されないルールとか、「当たり前だから」と言われる行動とか、「皆でやるものだから」という理由だけで決まっていることとか。
それに従うこと自体が嫌というより、納得できないまま時間を差し出す感じが、すごく苦手なんだと思います。
意味がわからないまま参加すること。
理由が語られないまま従うこと。
思考がない構造に、自分の時間が回収されていく感じ。
それを「非効率」って言葉で説明してるだけなのかもしれないな、とも思ったりして。
自由でいたい気持ちもあるし、でも社会の中で生きている以上、ルールから完全に離れることもできなくて。
だから多分、自分は反抗したいわけでもなくて、壊したいわけでもなくて、ただ、「意味が知りたい」だけなのかもしれません。
なぜそれをやるのか。
なぜその形なのか。
なぜその構造なのか。
それがわかれば、時間を使うことに納得できる気がしていて。
でも、もし全部に意味を求め始めたら、それはそれで、すごく疲れる生き方になる気もしていて。
どこまで疑って、どこまで受け入れて、どこから諦めて、どこから守るのか。
その線が、自分でもまだ全然わかっていないんですよね。
効率の話をしているつもりで、実は「時間」とか「自由」とか「選ぶ感覚」とか、そういうもっと根っこの話をしているのかもしれないなって思います。
今日はこれでおしまいです。
ではまた。
