今日、少し考えていたことがあります。
なんというか、「この世界って、誰も責任を取ってくれないな」って。
助け合いとか、支え合いとか、言葉としてはすごく綺麗なんですけど、現実の構造として見ると、結局、自分の身は自分で守らないといけない世界なんだなって思うことが増えました。
先日、ある政党のXのポストを見たんです。
「現場で働いている人がいるから社会は回ってる」とか、「知恵を働かせてマネーゲームが上手な人にお金が集まる社会はおかしい」とか、「温故知新が大事だ」とか、「子供と過ごす時間が幸せだ」とか。
昔の自分なら、たぶん心を動かされていたと思います。
「そうだよな」って、素直に思っていた。
でも、今は、少し違って見えてしまいました。
確かに、現場で働いている人がいるから社会は回っているし、生まれた環境が平等じゃないのも事実だと思います。
でも、この世界って、残酷だけど、最終的には自分で選んでいることも多いな、とも思ってしまうんです。
この国って、勉強したら殺されるわけでもないし、労働者にならなければ生きられない制度でもない。
規制されているわけでもない。
環境格差はある。
勉強できない環境もある。
制度も複雑で、正直めちゃくちゃ分かりにくい。
それでも、「選択している」って感覚が消えないんですよね。
「温故知新」という言葉も、正しい言葉だと思います。
でも、僕には、どこか
「昔みたいに汗水垂らして働くことが美しい」
「苦しい労働こそが正しい」
みたいな価値観の延長に聞こえてしまって。
昔はそれで報われた時代があった。
みんなが同じ方向を向いて、必死に働いて、経済が成長して、結果として多くの人が報われていた。
でも、今は、もう構造が違う気がするんです。
資本主義社会で、お金の知識がある人が有利になるのは、もう構造として決まっていることだと思っていて。
知恵を使ってお金をコントロールできる人にお金が集まるのも、ある意味、当たり前で。
違法じゃないなら、それは「賢さ」でもある。
それなのに、「知恵を使う人が悪い」「マネーゲームが悪だ」みたいな言葉を聞くと、少し違和感が残るんです。
学生の頃は、勉強できる人が評価されるのを当たり前に受け入れていたのに、大人になると、なぜかそれを受け入れにくくなる。
たぶん、しんどいんですよね。
学ぶことも、考えることも、責任を持つことも。
正直、勉強って楽しくない。
学校で散々それを刷り込まれてきたから。
大人になってから学び直そうって思える人は、たぶん少数派で。
だから、「誰かが何とかしてくれる」「社会が変わってくれる」って思いたくなる気持ちも、すごく分かります。
僕自身も、そう思ってました。
不平等があれば、声を上げれば、社会的弱者がいれば、誰かが守ってくれるって。
集団で不満を言っていると、なぜか強くなった気分になるんですよね。
正義の側に立っているような感覚になる。
でも、最近は、それも幻想だったのかもしれないなって思います。
この世界って、不平等で、残酷で、誰も本質的な責任は取ってくれなくて、それなのに、「みんなで一緒に平和になれる」って、どこかで信じようとしている。
そのズレに、違和感を覚えるようになりました。
かといって、「じゃあ全部自己責任だ」って言い切れるほど、単純でもない気もしていて。
構造は確かに不平等で、環境差は確実にあって、選択の自由は平等じゃない。
でも、それでも、「何も選んでいない」とは言えない感覚も残る。
無知を武器にすること、学ばないことを正当化すること、そこにはどうしても、引っかかりがあります。
ただ同時に、人が楽をしたい生き物なのも事実で、しんどいことから目を逸らしたくなるのも自然で。
結局、「自分はどこに立ちたいんだろうな」とか、「何を正しいと思いたいんだろうな」とか、最近は、そんなことばかり考えています。
「現実」って言葉で片づけているのか、「必然」って言葉で自分を納得させているのか、それとも、ただ期待しないことで、傷つかないようにしているだけなのか。
正直、まだ分かりません。
この世界を冷たく見たいのか、現実的に見たいのか、諦めたいのか、理解したいのか。
たぶん、まだ自分の中でも整理できていなくて、今はただ、「違和感だけが残っている」。
そんな感じなのかもしれません。
今日はこれでおしまいです。
ではまた。
